街中を歩いて観たこと、感じたこと、呟きのページ


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はじめに
従妹の斎藤杏子と私は、阪急交通社が募集している“地中海・南北キプロス8日間”の旅に参加しました。参加の動機は昔観た映画で“双頭の鷲”という映画でした。内容は無責任にも、全く覚えていない。多分フランス映画だったような気がする・・・が!
処で、「キプロス島、って何処に有るの?」・・・地中海の行き止まり、日本の四国と比べるとふた回りほど小さな島で、トルコの南70キロ、シリアの西100キロ、エジプトまで100キロという地の利に有ります。ヨーロッパとアジア、そしてアフリカを結ぶ交差路として諸民族の中継地になったため幾多の文明の支配にさらされてきました。キプロスの歴史は、紀元前12世紀~11世紀にギリシャ系民族が入植に始まり、アッシリア、エジプト、ペルシャ等の侵略と支配にさらされ、ローマ帝国が地中海全域を支配すると当然その属州になりました。帝国の東西分割と西ローマ帝国滅亡後は東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の統治下で繁栄しました。1191年に十字軍に参加したイングランド王リチャード1世(獅子王)がこの島を征服、リチャード獅子王からキプロス島を譲渡されたフランク(西ヨーロッパ)人の支配するキプロス王国が建国されました。しかし、キプロス王国は相続者を欠いたことから断絶し、ヴェネツィア共和国の植民地になりました。1453年にはビザンティン帝国は滅ぼされ、1571年にオスマン・トルコ帝国がキプロスを奪いました。エジプトの植民地化を進めていたイギリスは、この島の戦略的価値に目を付け、露土戦争後のベルリン会議でオスマン側に便宜を図った代償にキプロスの統治権を獲得しました。キプロスが英国から独立したのは1960年のことでした。しかし現在も英国は、キプロスに軍事基地を置いています。このときの「キプロス人」には、ギリシャ語を話すキリスト教徒とトルコ語を話すイスラム教徒とが居ました。1974年に両者の民族対立が勃発、これにトルコ軍が介入し、島の北側約3分の1を「北キプロス・トルコ共和国」として独立させました。但し、これを国家として承認しているのはトルコだけです(日本政府は北キプロスを「トルコ軍実行支配地域」と呼んでいます)。
現在は国連の平和維持軍が駐留し戦争こそ避けられていますが、キプロスはふたつに分断された国家です。南側の「キプロス共和国」は、EUに加盟が認められていますが、トルコ側はEUへの加盟を希望していますが認められていません。キプロスの分断問題は未だ解決の見通すら立っていません。そんな国を、2012年6月11日から2012年6月18日の8日間を斎藤杏子と34人の阪急交通社が募集した同行者と一緒に旅をした記録です。  
2012年7月13日記

2012年6月11日
成田国際空港第2ターミナルの3階に行き、阪急交通社から搭乗チケットを受け取り直ちに搭乗手続きを終了、空港内で軽い軽食を取りエミレーツ航空で22時00分ドバイに向かいました。ドバイまでの所要時間10時間50分。特別美味しい訳ではないが、海外旅行の楽しみの一つである機内食をたらふく食べ、ビールを存分に飲んでご機嫌な杏子嬢は一人大いに語り・・・あぁそぅ~そして、と相槌を打っていたら突然静かになりました。隣はもうお休みのようでした。そんな訳で、私も静かに寝る事に致しました。機内の照明は消灯され、代わりに砂漠の夜空の様な星空が瞬いていました。
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2012年6月12日
飛行機は、ドバイ国際空港に定刻通りの午前3時50分到着しました。ともかく吃驚したのはドバイの空港は広い事、賑やかなこと乗り継ぎまでの時間をマクドナルドのハンバーガをほおばり、眠たい目をこすりながらただ何もすること無く費やしました。ドバイの空港を午前8時35分に発ち、午前11時15分にドバイからシリア上空を無事通過、キプロスのラルナカ国際空港に到着致しました。天候は晴れ、気分は眠い。直ちに迎えの大型観光バスに乗りリマソルに向かいました。海岸沿いのレストランで昼食。寝不足の胃袋には・・・小さな烏賊のフライが美味しかった。お魚のフライも美味しかった。キプロスの日差しはギン、ギラギンとかなりきつい日差しでした。
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クリオンの古代都市遺跡
紀元前12世紀のトロイの戦争に勝利したギリシャ王がキプロスに10の城を建設、クリオンはその一つだそうです。長い年月、土に埋もれていたクジャク、ハト、魚等のモザイク絵は、赤味かかった色合いで描いた人のセンスが伺い知れるような素敵なモザイク絵でした。ゆっくり鑑賞している時間が無かったのが残念・・・気がつけば同行の仲間達は遠くに行ってしまい、また一人置いて~ケぼり・・・それ急げ・・・の遺跡見学でした。
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円形劇場
ローマ時代に造られた円形劇場で、現在も使用されているそうです。・・・輝く太陽のもとを、階段席のてっぺんまで昇ると、紺碧の海が輝いていました。このローマ劇場で、当時どんな演目が上演されたのかを想像するだけで、胸がワク、ワク、ドキ、ドキしてきました。
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アポロンの神殿
紀元前1200年頃に建設された女神信仰の巡礼地で、アフロディテは愛と美と性を司るギリシャ神話の女神として、美と豊穣の神と崇められ、紀元前4世紀頃まで巡礼者が絶えなかったとされています。かなり広い敷地に浴場跡、神殿、庭と聖職者の住まい、巡礼者の宿などが残されていて昔を偲ぶ、よすがとなりました。
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# by miyon-n | 2012-09-26 16:17 | 旅行
2012年6月13日
ぺトラ・ドウ・ミロウの海岸
アフロディテ(ヴィーナス)生誕の地といわれている海岸です。愛と美の女神の物語は、ウラノス(天)の子クロノスが、父親の男根を鎌で切り落とし海へ投げ込みました。海をさまよっていた男根は、ペトラ・トゥ・ロミウの海岸で白い泡(アフロス)を噴出し、そこから一人の女児が誕生しました。これがギリシャ神話の伝える女神誕生の秘話です。・・・コバルトブルーの海は息をのむほどの美しさでした。ところで“卵型の石を拾ったら美と健康が約束される”と言われていますが、卵型の石を探しましたがなかなか見つかる物ではありませんでした。残念!
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聖ネオフィトス修道院
キプロス島の内陸部の山岳地帯に建つ、ギリシャ正教の修道院で12世紀末に建てられました。山から切り出した岩で造られた建物に、ビザンティン時代のフレスコ画が残る修道院です。天井、壁に描かれたフレスコ画は厳かで神々しく近寄りがたさを感じました。何故か理由は分からないが、教会の石畳には“双頭の鷲”の絵が描かれていました。天に向かって延びた糸杉が格好良く素敵でした。
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アカマス自然公園
アカマス半島の海岸沿いは、古代マリオン王国のあった場所でギリシャ語の「町」という意味だそうです。ギリシャ神話のアフロディテの泉がある場所で、アフロディテの遊歩道とアドニスの遊歩道の2本が有りましたが、海岸沿いのアフロディテの道を歩きました。
キプロスのお天気の神様は、上機嫌でギン、ギラギンと容赦なく私達を照りつけいじめられました。
*アフロディテの泉  
アフロディテが水浴びに使ったという伝説が有り、ここで顔を洗うと美しくなるといわれています。但し、足元が悪いので要注意!d0158194_1436886.jpg



ディオニソスの館
ローマ時代の貴族の館跡です。敷地2000平方メートルのうちの500平方メートルを埋め尽くしたギリシャ神話をテーマにしたモザイク画は、それは   見事でした。戯曲ロミオとジュリエットのもとになったといわれている「ピラモスとフィズビの恋物語」、誰の愛も受け入れなかった美男子が、泉の水面に写った自分自身に恋をし、最後は黄色の水仙に変わってしまった(ナルシストの語源)話、その他「イカルスとディオニソス」「ポセイドとアミモニ」などの物語の話、猛獣狩りや鷹、ザクロ、壺など、小さなモザイク絵も飾られていました。これらのモザイク画は1926年、農夫によって偶然発見されました。様々な場面が活写され、陰影のある立 体的な技法で描かれていて見ているものを飽きさせませんでした。フレスコ画を強い日差しからも守るために取り付けられた簡易屋根のおおいの外は、日差しが強く、容赦なく私達の体からエネルギーを奪い去って行きました。
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2012年6月14日

オドモス村
オドモス村の甘口ワインは、世界最古のワインの一つとされています。その昔のファラオ、クレオパトラ、イスラエルのソロモン王も愛飲したといわれています。ワインにまつわる話ですが13世紀にエルサレム遠征にかりだされたテンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団の騎士達は、エルサレムの北西の港町アッコンがイスラム教徒に奪還されると、アッコンにいたテンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団達はキプロスに逃げて来たそうです。落ちのびて来たと言え、東西交易の利権を握り、戦い励んでいたテンプル騎士団の移住は、リマソルの町を経済的に潤し発展させました。キプロスとエルサレムの王を兼任していたリュージャン朝の最後の支配者になったヴェネツィア生まれの女王は、夫も子も失い故国ヴェネツィアの圧力によってキプロスの王冠を脱ぎ、ヴェネツィアの支配下に入ることになりました。ヴェネツィアの支配下に入ることを察知した騎士団は、城や荘園をヴェネツィア貴族に売り渡しそれぞれの故郷に引き揚げて行きました。騎士団が残していったブドウ畑で造られているワインを「コマンダリア」と命名し、ラベルに騎士団の紋章を描きヨーロッパ各地に販売しているそうです。・・・昔、馬車が通っただろう石畳の道は、幾多の年月を経て丸く磨り減り角が取れていましたが、今も立派に残っていました。お土産にワインを2本購入しました。
されました。様々な場面が活写され、陰影のある立 体的な技法で描かれていて見ているものを飽きさせませんでした。フレスコ画を強い日差しからも守るために取り付けられた簡易屋根のおおいの外は、日差しが強く、容赦なく私達の体からエネルギーを奪い去って行きました。
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キッコー修道院
キッコー修道院の建立の由来は、イザヤという隠者が修道生活を送っていました。キプロスの総督ヌマイルは、山で狩りをしていて道に迷い、イザヤの庵にたどり着きました。ところがイザヤが総督に礼儀を払わなかったので、総督は兵士に命じイザヤを懲らしめ、山を下りました。しばらくして、総督は重い病気にかかりました。総督は山の中での出来事を思い出し、イザヤに来てくれるよう願いました。同じ頃に、イザヤも夢で聖母マリアからのお告げを受け、総督のところへ行って祈りによって総督の病気を治しました。お礼と言う総督に、イザヤは首都コンスタンティのポリスの宮廷に有る“聖母のイコン”をキプロスにもたらしたいと言いました。これが難題でした。ところが皇帝アレクシオス・コムネノスの息女が、総督と同じ病気になっていました。そこで総督は、自分の体験談を皇帝に話しました。総督とイザヤは皇帝に呼ばれ、祈りによって息女の病気を治しました。皇帝は、以前からあった“聖母のイコン”の下賜の申し出を思い出し聞き入れました。しかし、皇帝はイコンの摸作を作らせキプロスに送ろうとしましたが、皇帝の夢に聖母が現れ、模索のイコンは皇帝が持ち、オリジナルのイコンはキプロスに送るよう命じたそうです。・・・由来を短くざっと話すとこんなところでした。・・・でも、あんまりギン・ギラ・ギンでまるでテーマパークみたいで有難味が薄いみたいに感じました。
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ペドラス村
朝8時にホテルを出発、添乗員の石原さんから“今日は、山道を走りますから車に酔う人は前の方の座席に座って下さい。”の呼びかけがありました。一瞬緊張が走りましたが、何事も無く、バスは糸杉、松、棕櫚、オリーブの木立の林の中を通り抜け、クネ、クネ曲がった急勾配の坂道をスイ、スイと走り、オドモス村、キッコー修道院を訪ね、そしてペトラス村に到着しました。真っ白な建物に、フワフワした綿菓子みたいな赤い屋根を乗せた教会を窓越しに眺めながら昼食をとりました。清々しい山の空気と昼食に出されたミネラルウオータが美味しかった。
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聖ニコラス教会
山奥の小さな教会。それも何処にでもある様な一軒家に入って吃驚しました。フレスコ画が天上から壁に描かれていました。ビザンティン帝国時代の物だそうです。
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聖アシヌ教会
11世紀~12世紀にかけて描かれたと思われるフレスコ画がびっしりと天井から壁に埋め尽くされていました。イエスの誕生、磔刑、復活等々・・・可愛い顔をした田舎娘の様な清純な愛くるしい顔の聖母さまが描かれていました。・・・人里離れた山の中の教会で、村の人が大切に守っているうんだ~な~あ~という事がひしひしと感じられた教会でした。写真撮影は辞めました。
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2012年6月15日

聖ヨハネ大聖堂
1662年に建てられた教会。聖書を題材とした保存状態に良い18世紀の壁と
木に彫り込まれたイコンがある教会でした。
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ファマグスタ門
16世紀のヴェネツィア時代に建てられた城壁。城壁の外から、市内に入るために有った3つの門の内の最大のものがファマグスタ門です。西に有る門はパフォス門、北に有る門はキレニア門(ギネル門)、東に向いた門がファマグスタ門で、キレニア門は北のトルコ側に有りました。・・・複雑な地形に頭がこんがらがって???
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ジャコラスタワー
キプロス随一の高さを誇る建物だそうです。階下は、百貨店・スーパーマーケット等が入っています。北プロスが一望出来る展望デッキがある人気スポットだそうです。何か寂しげな繁華街でした。
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ベラバイス修道院
フランスのユーグ3世が十字軍を率いて遠征の際に建てた教会で、天井は高く、中庭の周囲の回廊はいたるところにゴシック装飾が施されている、糸杉に囲まれたお洒落な教会でした。・・・さすがセンス抜群のフランスの王様だ~な~あと感心しました。
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ギネル城
ビザンティン時代に、アラブの海賊から島を守るための砦として造られた城です。その後ヴェネツィア時代に要塞化され、十字軍の遠征途中に立ち寄ったイングランド王リチャード1世によってリュージニャン朝に譲渡されました。塔の最上階には、リュージニャンの兵士、リチャード獅子王の兵士、ビザンティン、オスマン、イギリスの兵士の蠟人形が並んでいて、この城が城塞として居城として、そして牢獄として様々な利用のされ方をされた事を物語っていました。黒衣の獄史がチェーンを持って“車を回し”そのうえチェーンで引っ張られて居る蝋人形(拷問の様子)等が展示されていました。そんな悪趣味な部屋をそそくさと後に城の屋上に登り、目の前に広がった地中海を眺め、しばらくのあいだ赤と白のふたつのトルコ国旗を眺めていました。
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2012年6月16日

サラミス遺跡
ローマ時代の遺跡は、木立や野草の緑に埋もれていました。円形劇場、体育館、浴場、市場等の跡は、南国の太陽がギラギラと照りつける下で、草ぼうぼうの自然の中に放置されていました。雑然と放置されたままになっている遺跡は、変に整備された遺跡より想像力をかきたてるものが有り素晴らしかった。
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オセロー城
通称「オセローの塔」と呼ばれる城塞です。だからと言ってシェイクスピアの悲劇「オセロー」の主人公が居たお城では有りません。キプロスがイギリスの植民地になってからだそうです。
この城塞は、14世紀初めテンプル騎士団によって建てられた城塞です。キリスト教の聖地守護のために誕生した集団で、第1回十字軍の占領には成功したものの、十字軍参加者はほとんど聖地奪還に満足して帰国してしまいました。その結果中東地域に残されたキリスト教勢力は不安定なものになりました。このことを憂慮して聖地の守護を唱え「テンプル騎士団」が誕生したそうです。テンプル騎士団の騎士の強さと勇敢さは伝説的なものだったようです。テンプル騎士団は入会者や各地の信徒から寄進をうけることで、その財力を増やし、そして多くの要塞を作ったそうです。フランス王フィリッ4世は財政面で幾度も騎士団の援助を受けながら、富裕なテンプル騎士団の財産に目を付けテンプル騎士団の壊滅と資産の没収(略奪)を計画、テンプル騎士団を瀆守と異端の嫌疑で糾弾をし、騎士団総長以下、二千人もの騎士達が捕らえられ、残酷極まりない拷問によって自白を強要し、無実の罪で火刑に処せられとそうです。そして13世紀にはエルサレム王国を支配していたテンプル騎士団も壊滅したそうです。崩れかけた城壁跡は、まさにつわもの達の夢の跡を偲ばせてくれました。
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ララ・ムスタフア・パシャ・モスク
14世紀頃に創建された教会で、創建当時の支配者は、エルサレムとキプロスの王を兼任していたリュージニャン朝の全盛時代でした。リュージャン朝の最後の支配者になったヴェネツィア生まれのカテリーナがジャック2世と結婚式を挙げたのもこの大聖堂でした。女王カテリーナは、故国ヴェネツィアの圧力によりキプロスの支配者としての王冠を脱ぎリュージニャン朝は終焉を迎えました。そしてオスマン帝国征服後は、聖堂はモスクに変えられました。当初はアヤ・ソフィア・モスクと呼ばれていましたが、その後征服戦の総司令官将軍を記念してララ・ムスタファ・パシャ・モスクと改名されました。オスマン征服後モスクに改装され、尖塔が付加され、前面にイスラム式の泉が造られました。天井が高くって、皮肉にも讃美歌が良く似合うイスラム教の寺院でした。
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洞窟教会
キリスト教が弾圧されていた時代の教会です。入口が狭く、ひっそりとした教会でした。ギン、ギラ、ギンに輝いた太陽のもとを歩いてきた私たちは、いきなり真っ暗な場所に入り目が慣れるまで方向感を失い、慌てて転んだり、ぶつかったりして慌てました。静かに神様に祈りを捧げられそうな教会でした。
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アヤナビーチ
岬全体が、国立公園になっている風光明媚なリゾート地です。もともとは小さな漁村だったのが、美しいビーチに惹かれ次第に人々が集まるようになった場所だそうです。冬でも太陽を求めロシアや北欧から海水浴客がやって来る程の人気リゾート地です。日本みたいに音楽がドン、ドン、ジャカ、ジャカが無いのが不思議な位に静かなビーチでした。
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2012年6月17日

レフカラ村
"レフカリティカ”と言われている刺繍で、15世紀にヴェネツィアから移住してきた女性達によって伝えられた技術で、白や薄茶色の麻や絹の布に丁寧に刺繍を施したレースでヨーロッパでは高い評価を受けているそうです。その昔、この村を訪れたレオナルド・ダ・ヴィンチは、このレースにいたく感動し気に入ってこのレースをミラノ大聖堂の祭壇に飾るため持ち帰ったという話、今でも実しやかに語らるています。 幾何学模様のレースはものすごく繊細で素敵でした。でも、雑然とした私の部屋のど何処に飾ろうか・・・なあ・・・?考えて買うのは辞めました。
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ヒロキティア
紀元前7000年頃の旧石器時代の住居跡だそうです。石の土台の上に藁を混ぜた土レンガで円形状の住居を造っていたそうです。狩猟採集のほかに農業と牧畜を行っていたそうです。また、出土した遺跡から当時どんな物を食べていたかがわかるそうです。すでに穀類の栽培が始まって居たようで、オリーブやイチジク、シカ、ヤギ、ブタなどの牧畜もされていたようです。見晴らしの良いなだらかな丘の頂上。日差しを遮る物がなく暑かった!
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聖母天使教会
正式名は、パナディア・アンジェロクティスィ教会だそうです。「天使が建てた聖母教会」という意味だそうです。外観はシンプルだが、内部はギリシャ正教の例に漏れずギンギラとゴージャスにイコンが飾られていました。
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聖ラザロ教会
「キリストの友人」と言われる聖ラザロは、エルサレムの東3キロ程の小さな町ベタニアに生まれたユダヤ人でした。ラザロは、マリアとマルタ姉妹の弟でした。新約聖書によると、キリストがガラリヤからエルサレムへ旅をした時にラザロの家で何度かもてなしを受けました。ラザロは、30歳で病を得て死に埋葬されましたが、四日後にキリストが復活させました。四日後墓にあったラザロは死臭を発していたが、キリストが出て来なさいと云うと、布を体に真着たまま立ち現われたと云う奇跡。復活したラザロは、キプロスのラルナカに渡り、60歳で二度目の死を迎えたそうです。使徒パウロとバルナバは、伝道の旅の途中キティウムで、羊飼いをしていたラザロ出会い、彼を聖者としキティウムの初代主教にしたそうです。ラザロの墓は、教会の祭壇の下の大理石の棺に納められたそうです。棺の中からギリシャ文字で“イエスの友人ラザロ”の棺と書かれていたそうです。そんな物語があるため、復活の奇蹟を信じてこの教会に病気治癒を願う巡礼者が多いそうです・・・。
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ハラ・スルタン・モスク
宿坊を兼ねたイスラムの僧院。背の高いナツメヤシと灌木の緑の間から青空をバックに大小のモスクの尖塔が魅力的でした。何故か猫が沢山いました。
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ラルナカ空港
観光バスに乗っての8日間の旅は終了、ラルナカ空港を2012年6月17日20時20分に発ち、ドバイ経由、成田国際空港に向け帰路に着きました。



旅の終わりに
ある日突然に、キプロス共和国を訪ねる事になりました。スワ!旅行案内書・・・しかし、お定まりの古臭い基本情報しかなくキプロスの事を知ろうにも資料が無く閉口しました。それもその筈の日本からの観光(ツアー)客は余り無いそうです。行ってみて驚いた事に、こんなに政治に翻弄された国は無いのではないかと思いました。キプロス島の歴史は9千年の歴史を持つ島で、前史時代の集落跡あり、古代ギリシャの神殿跡、古代ローマ劇場も、初期キリスト教のバシリカも、ビザンティン時代の修道院も、十字軍の城もあり、ゴシック式の教会も、ヴェネツィア時代の要塞も、オスマン帝国時代のモスクや浴場、さらにキプロスを植民地にしていた英国人の居住区がありと、世界史をギュッと濃縮・圧縮したような島で非常に興味深く感じました。出来ればもう一度、時間をかけゆっくりと訪れたいと思いました。また、2012年現在、キプロスの南北統一には目処が立っていません。トルコがEUに加盟するには、北キプロスを手放すことが条件になる事でしょう。だが、そもそもEU自体ギリシャの財政問題で揺れ前途も全く不明な状況です(キプロス共和国もギリシャ国債を大量に保持している為に財政再建国になっています)。しかし、再び訪れることが許されるならば、南北統一された平和な国家で有ってほしいと願ってやみませんでした。
2012年8月8日記
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# by miyon-n | 2012-09-26 16:15 | 旅行
松崎笙子ちゃんが「南イタリア・シチリア島 世界遺産紀行9日間」の
パンフレットを持って来て「これ行かない。」と誘われました。
『悪くない、行きたい!』と誘いを受け、約1カ月後、旅支度をし、
明後日はイタリア行きと思いを巡らしていと、JTBのツアーコンクターの
小原さんが「成田でお待ちいたしています。」の電話でのご挨拶に、
笙子ちゃんに時間に遅れないよう少し早めに自宅を出るようにと連絡をし、
隣のお姉さんに「留守にするのでよろしく。」と挨拶して床に就いた。
  
2010年6月21日 朝9時に家を出、地下鉄茗荷谷駅から東京駅経由、
成田国際空港に向かいました。JTBの受け付けカウンターでは、
大きな巨漢のにこやかな頼りがいのある小原さんが待っていました。
手荷物を預け、搭乗手続きを済ませ、笙子ちゃんはおむすび、
私はサンドイッチの軽い昼食を取り出発までの時間を待ちました。
午後1時20分アリタリア・イタリア航空で一路ナポリへ、
フライトの所要時間は約13時間35分、時計が逆回りしたわけだから、
現地時間は6月21日の午後9時30分、全く疲労感は感じ無い。
このままベットに入るには勿体無い気分ではあったが、
かといって夜間の散歩と云う訳にもいかず、
同行の笙子ちゃんは事前勉強に余念がないので、私は静かに寝ることにしました。

2010年6月22日 ここナポリは、紀元前8世紀頃にギリシャの植民都市として築かれ、
ローマ皇帝アウグストゥスの時代を経て、中世末期にビザンチン帝国、
11世紀にはノルマン人の支配、ホーエンシュタウフェン家、アンジュー家、スペインの
アラゴン家、フランスのブルボン家とめまぐるしく覇者が変わり、イタリア統一運動の
立役者ガリバルディ将軍のナポリ入城まで、常に外国の支配にさらされてきた
風光明媚な文化遺産が沢山残る街です。
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               ナポリ湾からのヴェスーヴィオ火山

午前6時前に目が覚めた。笙子ちゃんと二人で退屈なので街に出ることにした。
ホテルは日本で云う駅前旅館で飾りっ気のない、気の置けない清潔で落ち着いた
“ナポリ駅前ホテル”でした。ホテルの前にカリバルディ将軍の銅像が有り、
銅像の前で2~3人の人が新聞を読んだりして所在無げに座っていました。
早朝のせいか道往く人は男性ばかりで、華やかさが全くない古臭い田舎街の印象でした。
かって“ナポリの街は塵の山”という噂は、昔の話のようでナポリの街はわりかし綺麗でした。
ヴェスーヴィオ山を探してみたが見当たらないので諦めホテルに戻り、カプリ島見学の支度を
済ませ時間を過ごした。ナポリの歴史地区を大型バスで車窓から眺め、一路カプリ島へ。
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       写真はマスオキ・アンジョイーノヌオー(アンジュー家のやぐら)ヌーヴォ城
フエリー乗り場は、かってマスオキ・アンジョイーノ(アンジュー家のやぐら)と呼ばれている、
4つの塔が有るヌオーヴォ城の前でした。いかにも頑強そうなお城らしい風態のお城を、
遠くから眺め、フェリーに乗りました。真っ青な海、雲ひとつない青空に、期待は“青の洞窟”。
船は外海に出たのか揺れが激しくなり、同乗のイタリア人かフランス人かの小父さんが
船酔いに、ゲイ、ゲイ、私の目の前で苦しそうに吐き始めた。
そこからが運の分かれ目だったのか、波が高く“青の洞窟”は見学を中止にせざるを得ない
状況である事がツーア・コンダクターの小原さんから伝えられた。残念!カプリ島に上陸。
街の中心のウンベルト1世の広場で一休止、土産物屋さんばかりが目につくつまらない広場
だと思ったが、マーア良いや!日陰に入りイタリアのジラードで一息入れた。
イタリアのジェラードの味は、ねっとりしていて少々甘みが強く、
素材の味を殺している様で、少々残念に思った。
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   集合の合図がありバスに乗り、昼食会場に
   向かった。
   小エビとイカのフライは絶品!
   う~ん上手い!
   午後は、高台からの眺望が美しい美術館、
   “ヴィッラ・サン・ミケーレ”を見学、満足・満足!
   バスで下山しカプリ島を後にした。


写真は“ヴィッラ・サン・ミケーレ”収蔵品
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ソレント港からバスで世界で最も美しい、
アルマフィ海岸へ。入り組んだ岸壁の下を
透き通る碧い海が広がり、ブーゲンビリアの
花が咲き誇る谷間を車はクラクションを
鳴らしながら突っ走り、車窓の風景は
飽きる暇もなく美しいかった。
途中お手洗い休憩と称し一休憩していると、
偶然にも式を挙げたばかりの新郎・新婦が
アマルフイ海岸を背景に記念撮影の最中でした。
新婦はプロのファッションモデルにしてもよい
くらいの美人で、その優美さに皆ウットリ。
集合の合図に心を残して一路アマルフイへ
アマルフイのドゥオーモは広い長い階段とイスラム風の壮言な雰囲気の教会でした。
一路ナポリのホテルへ。



                             写真はアルマフイ海岸で記念撮影中の新郎・新婦

2010年6月23日 本日も快晴。ポンペイ遺跡観光。2000年以上も前に栄え、
ヴェスーヴィオ火山の噴火によって火山灰の下に埋もれてしまった街。
馬車のわだちが残る石畳の道を歩きながら、スポーツジムや共同浴場、
居酒屋そして売春宿・・・。同行の笙子ちゃんの「今も昔も大して変わらないじゃないの!」の
呟きに、苦笑した。昼食はポンペイ近くのレストランでビールそして・・・。
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                写真はヴェスーヴィオ火山とポンペイの遺跡
強い日差しの中、吹いて来る風が心持ち良かった。バスの快い振動が、
眠気を誘い気が付いたらマテーラに到着していた。
この地方は、平野部は狭く、その殆んどが山岳地帯ばかりで、
乾いた大地と降水量の少なさで、農業従事者が多い割には、
その生産性は低く、生活は決して豊かではない。四方を山によって閉ざされた土地ゆえに、
近世の時代には政治犯の流刑地でもあった。小作農民の生活の場であつた、
マテーラの洞窟住居(サッシュ)地区は、その起源は旧石器時代にさかのる
。すり鉢状になった地形に、張り付いている洞窟住居(サッシュ)での生活は、厳しい自
然の中で家畜と一緒に暮らさなければならなかった人々の、生活様式を伺い知る事が出来る。
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                 写真は殺伐としたマテーラの洞窟住居群
第2次世界大戦後には南イタリアの『悪夢』として、法律によって無人化され、
その歴史を封印しようとしたが、1993年に見直され貴重な文化遺産として登録された。
神に見放された土地と云われ、砂が舞う風の音と、荒々しい大地の中で、カラカラに乾燥し
た洞窟住居(サッシ)は、昔流行った『マカロニ・ウエスタン』を彷彿させる荒涼とした
風景に涼秋を感じた。一路アルベロベッロへ。宿泊はアルベロベッロ。

2010年6月24日 アルベロベッロは、イタリア半島の先端、ちょうど長靴のかかと
部分にあたるアドリア海とイオニア海に囲まれた、山が少ない平坦な土地でイタリアで最
も農業が盛んな地方とされている。オリーブ、パスタ用の小麦、ワイン用のブドウ、アー
モンド、一般野菜等その生産は抜きんでてる。また、海に恵まれたこの地方は、シチリア
に次ぐ漁獲高を誇っている。標高415mの丘の上にあるアルベロベッロは、『素晴らし
い木』の意味をもつ観光地です。
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              写真はアルベロベッロの三角屋根のトゥルッリ
円錐形の屋根と白い壁が特徴のトゥルリは、冬は暖かく、夏は涼しく、
なかなか便利な建物になっている。漆喰で塗り込めたその起源は、いまだ
に明らかにされていない。朝食まで時間が有ったので、ホテルの周りを歩いてみた。街と
云うより、リゾート地と云ったほうが正解かもしれない。ホテルの裏手に大きなプールが
有りこれと云った特色の無い、白で統一された田舎町と云った方が正解かも知れない。朝
食後、徒歩でアルベロベッロの見学。灰色の屋根に、大きく白く書かれたミステリアスな
シンボルのトゥルッリは、神秘的でとても興味深かった。日本人の『洋子さん』が経営す
るお土産屋さんに入ったが、これといった興味をひかれるものは無かったので、何も買わ
ずにすスゴ、スゴ引き揚げて来た。10時過ぎにアルベロベッロを出発コンセツァのレス
トランで昼食。あちこちの窓から洗濯物がひらめいていて何か雰囲気のある親しみを感じ
る街でした。これと云った観光施設がないのか一路、ヴィラ・サンジョバンニへ。
ヴィラ・サンジョバンニでフエリーに乗りメッシーナを経シチリア島のタオルミーナへ。
良く走った。いや、遠くに来たもんだ!荷物の整理、すぐにベットへ。

2010年6月25日 地中海最大の島、シチリア島は、地中海の要塞都市として様々な異民族
に支配され独特な文化を開花させて来た地である。ギリシャ植民地の時代、ビザンチン帝国が
覇権を握った時代、アラブ人支配の時代と、地中海の中心地という地理的な条件から度重なる
侵略の結果の、異文化の入り混じった奇妙で興味深い文化が創造された。
島の大半は、山地と丘陵地で覆われ、平野部はわずかにカターニアの周辺に見られる
程度で、柑橘類の生産と、ワイン用のブドウ栽培が主要な産業です。
また、三方を海に囲まれ美味しい魚介料理が楽しめる地域でもある。
ドイツの文豪ゲーテが「世界で一番美しいイスラム都市」と言わしめ、
北ヨーロッパ人の憧れの保養地として200年以上の歴史を誇る、成熟した観光地で、
宿泊施設や交通網が早くから発達した“太陽の光”が豊かな街でも有る。
南イタリアの朝は早い。6時前だと云うのに明るい。炎天下歩くのは覚悟の上、洗顔と同時に
日焼け止めクリームをコッテリ付けておいた。8時45分ホテルを出発。ギリシャ劇場見学。
すごい!イオニア海の紺碧の海を背景に、エトナ山の雄姿が広がた絶景にしばし佇んでいた。
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     写真はイオニア海とエトナ山の眺望が美しいタオルミーナのギリシャ劇場
バスで移動し、紀元前5世紀にド―リス式のアテネ神殿が建設されていた
というドゥオーモを見学、豪華なバロック様式の祭壇にアテネ神殿の円柱が身廊に組み込
まれているドゥオモで、天井絵が豪華で美しかった。噴水のある4月9日広場を見学。一
路シラク―サへ。ジリ、ジリと焼けつくような日ざしに閉口した。ネアポリ考古学公園で
は、兎も角日差しから遠のきたかった。細長い耳の形をした“ディオニュシオス”の耳の
前まで来た時は、ホッとしてしばし穴の中で涼をとった。バスで移動、海岸沿いのドゥオ
ーモを見学。アレトゥーザの泉の前のお土産屋さんで、若い可愛い女の子がアーモンドの
殻を剥きながら売っていた。しかし、興味は持つが、誰も買う人はいなかった。世の中キ
ビ~イ。ホテルへ。

2010年6月26日 又もや快晴。湿度が低いせいか疲労感は全く感じなかった。朝食
後バスでカルタジローネヘ向かう。カルタジローネ到着。陶器で飾られた華やかな公園
で、早朝のせいか公園に集う人はまばらでちょっぴ寂しい感じがした。市民公園を通り抜け
州立陶器博物館を見学。先史時代から現代にいたるまでのシチリアの陶器が並べられてい
ました。博物館を見学後、サンタ・マリア・デル・モンテ教会へ。一直線に延びていた142段の
色鮮やかなマヨルカ焼きの階段は見事でした。時間内に登って下りて来る自信が無かったの
で、日陰に入って時間の来るのを待った。
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          写真はカルタジローネのサンタ・マリア・デル・モンテの大階段
2010年6月27日 6時30分にモーニングコールが鳴り、朝食後8時30分にホテルを立ち
モンレアレーに向かう。ビザンチン様式の素晴らしいドゥオーモを見学。
ドゥオーモの内部四方は旧約、新約聖書にちなんだモザイク画で飾られたドゥオーモで、
中央祭壇正面に手を広げている全能の神、キリストのモザイク画は見事で圧倒されました。
また、ドゥオーモの右横にある回廊は、円柱の上部にそれぞれ異なった模様とモザイク画が
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        写真はキオストロ・モンレアーレ・デイ・サンタ・マリア・ラ・ヌオーヴァの回廊

はめ込まれていて、何ともミステリアスな雰囲気を漂わせていた。
モンレアーレを見学後、パレルモに行きノルマン宮殿の外観を見学。
途中あまりのも日差しが強い為か、同行の女性陣達が帽子を仕入れ、仕入れた帽子を
めぐって品評会がバスの中で賑やかに開かれた。マルトラーナ教会を見学後、
ネオ・クラッシク様式のマッシモ劇場を見学。マッシモ劇場は、3200席の客席数を誇る
ヨーロッパで2番目の大きさの劇場です。内部は、5層のボック席と最上階桟敷席を
備える豪華な劇場でした。あのゴットファーザーの撮影場面で有名な場所です。
撮影の最中は、改修中で映画は大掛かりなセットを組んでの撮影だったそうです。
あの映画は良かった~もう一度見たい。あの、マッシモ劇場での殺害シーン!哀愁とか
儚さとかを感じたいい映画でした。
昼食後、地中海沿岸都市として紀元前6世紀築かれ栄えた
「神殿の谷」地域を見学。アグリジェントのエルコレ(ヘラクレス)の神殿、
ディオスクロイ(カストール・ポルックス)の神殿、ジョーヴェ・オリンピコ(ジュピタ―)
神殿を見学、最後にコンコルエィア神殿を見学。カルタゴ軍との戦いで破壊され、
その後の地震で倒壊した神殿群の風景みて、「一体何の為に、ギリシャ人は
こんなに神殿を沢山造ったんだろうかと!」と思わずにいられなかった。
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     写真はカルタゴ軍と戦ったローマ兵の記念碑がある神殿の谷の遺跡群
アグリジェントを見ずしてシチリアを語るべからず。古代ギリシャ神殿が、
建ち並んでいる様子には、歴史という時間を感じさせられた。
夕食は地中海で獲れたヒラメのムニエル。
ウエイターがサッカーのテレビ中継が気になるらしく落ち着かない様子。
ここはイタリアのシチリアなのだ。
明日は、日本に向け帰国しなければならない。名残惜しい。

2010年6月28日 パレルモを12時20分発、ローマ経由の飛行機で成田に向かい
ました。

2010年6月29日成田着小雨。蒸し暑い。南イタリヤの快適性とはあまりにも落差が
有り絶望。
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# by miyon-n | 2010-07-13 14:03 | 旅行