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街中を歩いて観たこと、感じたこと、呟きのページ


by miyon-n
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地中海キプロス島歴史散歩の旅

2012年6月13日
ぺトラ・ドウ・ミロウの海岸
アフロディテ(ヴィーナス)生誕の地といわれている海岸です。愛と美の女神の物語は、ウラノス(天)の子クロノスが、父親の男根を鎌で切り落とし海へ投げ込みました。海をさまよっていた男根は、ペトラ・トゥ・ロミウの海岸で白い泡(アフロス)を噴出し、そこから一人の女児が誕生しました。これがギリシャ神話の伝える女神誕生の秘話です。・・・コバルトブルーの海は息をのむほどの美しさでした。ところで“卵型の石を拾ったら美と健康が約束される”と言われていますが、卵型の石を探しましたがなかなか見つかる物ではありませんでした。残念!
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聖ネオフィトス修道院
キプロス島の内陸部の山岳地帯に建つ、ギリシャ正教の修道院で12世紀末に建てられました。山から切り出した岩で造られた建物に、ビザンティン時代のフレスコ画が残る修道院です。天井、壁に描かれたフレスコ画は厳かで神々しく近寄りがたさを感じました。何故か理由は分からないが、教会の石畳には“双頭の鷲”の絵が描かれていました。天に向かって延びた糸杉が格好良く素敵でした。
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アカマス自然公園
アカマス半島の海岸沿いは、古代マリオン王国のあった場所でギリシャ語の「町」という意味だそうです。ギリシャ神話のアフロディテの泉がある場所で、アフロディテの遊歩道とアドニスの遊歩道の2本が有りましたが、海岸沿いのアフロディテの道を歩きました。
キプロスのお天気の神様は、上機嫌でギン、ギラギンと容赦なく私達を照りつけいじめられました。
*アフロディテの泉  
アフロディテが水浴びに使ったという伝説が有り、ここで顔を洗うと美しくなるといわれています。但し、足元が悪いので要注意!地中海キプロス島歴史散歩の旅_d0158194_1436886.jpg



ディオニソスの館
ローマ時代の貴族の館跡です。敷地2000平方メートルのうちの500平方メートルを埋め尽くしたギリシャ神話をテーマにしたモザイク画は、それは   見事でした。戯曲ロミオとジュリエットのもとになったといわれている「ピラモスとフィズビの恋物語」、誰の愛も受け入れなかった美男子が、泉の水面に写った自分自身に恋をし、最後は黄色の水仙に変わってしまった(ナルシストの語源)話、その他「イカルスとディオニソス」「ポセイドとアミモニ」などの物語の話、猛獣狩りや鷹、ザクロ、壺など、小さなモザイク絵も飾られていました。これらのモザイク画は1926年、農夫によって偶然発見されました。様々な場面が活写され、陰影のある立 体的な技法で描かれていて見ているものを飽きさせませんでした。フレスコ画を強い日差しからも守るために取り付けられた簡易屋根のおおいの外は、日差しが強く、容赦なく私達の体からエネルギーを奪い去って行きました。
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2012年6月14日

オドモス村
オドモス村の甘口ワインは、世界最古のワインの一つとされています。その昔のファラオ、クレオパトラ、イスラエルのソロモン王も愛飲したといわれています。ワインにまつわる話ですが13世紀にエルサレム遠征にかりだされたテンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団の騎士達は、エルサレムの北西の港町アッコンがイスラム教徒に奪還されると、アッコンにいたテンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団達はキプロスに逃げて来たそうです。落ちのびて来たと言え、東西交易の利権を握り、戦い励んでいたテンプル騎士団の移住は、リマソルの町を経済的に潤し発展させました。キプロスとエルサレムの王を兼任していたリュージャン朝の最後の支配者になったヴェネツィア生まれの女王は、夫も子も失い故国ヴェネツィアの圧力によってキプロスの王冠を脱ぎ、ヴェネツィアの支配下に入ることになりました。ヴェネツィアの支配下に入ることを察知した騎士団は、城や荘園をヴェネツィア貴族に売り渡しそれぞれの故郷に引き揚げて行きました。騎士団が残していったブドウ畑で造られているワインを「コマンダリア」と命名し、ラベルに騎士団の紋章を描きヨーロッパ各地に販売しているそうです。・・・昔、馬車が通っただろう石畳の道は、幾多の年月を経て丸く磨り減り角が取れていましたが、今も立派に残っていました。お土産にワインを2本購入しました。
されました。様々な場面が活写され、陰影のある立 体的な技法で描かれていて見ているものを飽きさせませんでした。フレスコ画を強い日差しからも守るために取り付けられた簡易屋根のおおいの外は、日差しが強く、容赦なく私達の体からエネルギーを奪い去って行きました。
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キッコー修道院
キッコー修道院の建立の由来は、イザヤという隠者が修道生活を送っていました。キプロスの総督ヌマイルは、山で狩りをしていて道に迷い、イザヤの庵にたどり着きました。ところがイザヤが総督に礼儀を払わなかったので、総督は兵士に命じイザヤを懲らしめ、山を下りました。しばらくして、総督は重い病気にかかりました。総督は山の中での出来事を思い出し、イザヤに来てくれるよう願いました。同じ頃に、イザヤも夢で聖母マリアからのお告げを受け、総督のところへ行って祈りによって総督の病気を治しました。お礼と言う総督に、イザヤは首都コンスタンティのポリスの宮廷に有る“聖母のイコン”をキプロスにもたらしたいと言いました。これが難題でした。ところが皇帝アレクシオス・コムネノスの息女が、総督と同じ病気になっていました。そこで総督は、自分の体験談を皇帝に話しました。総督とイザヤは皇帝に呼ばれ、祈りによって息女の病気を治しました。皇帝は、以前からあった“聖母のイコン”の下賜の申し出を思い出し聞き入れました。しかし、皇帝はイコンの摸作を作らせキプロスに送ろうとしましたが、皇帝の夢に聖母が現れ、模索のイコンは皇帝が持ち、オリジナルのイコンはキプロスに送るよう命じたそうです。・・・由来を短くざっと話すとこんなところでした。・・・でも、あんまりギン・ギラ・ギンでまるでテーマパークみたいで有難味が薄いみたいに感じました。
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ペドラス村
朝8時にホテルを出発、添乗員の石原さんから“今日は、山道を走りますから車に酔う人は前の方の座席に座って下さい。”の呼びかけがありました。一瞬緊張が走りましたが、何事も無く、バスは糸杉、松、棕櫚、オリーブの木立の林の中を通り抜け、クネ、クネ曲がった急勾配の坂道をスイ、スイと走り、オドモス村、キッコー修道院を訪ね、そしてペトラス村に到着しました。真っ白な建物に、フワフワした綿菓子みたいな赤い屋根を乗せた教会を窓越しに眺めながら昼食をとりました。清々しい山の空気と昼食に出されたミネラルウオータが美味しかった。
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聖ニコラス教会
山奥の小さな教会。それも何処にでもある様な一軒家に入って吃驚しました。フレスコ画が天上から壁に描かれていました。ビザンティン帝国時代の物だそうです。
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聖アシヌ教会
11世紀~12世紀にかけて描かれたと思われるフレスコ画がびっしりと天井から壁に埋め尽くされていました。イエスの誕生、磔刑、復活等々・・・可愛い顔をした田舎娘の様な清純な愛くるしい顔の聖母さまが描かれていました。・・・人里離れた山の中の教会で、村の人が大切に守っているうんだ~な~あ~という事がひしひしと感じられた教会でした。写真撮影は辞めました。
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2012年6月15日

聖ヨハネ大聖堂
1662年に建てられた教会。聖書を題材とした保存状態に良い18世紀の壁と
木に彫り込まれたイコンがある教会でした。
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ファマグスタ門
16世紀のヴェネツィア時代に建てられた城壁。城壁の外から、市内に入るために有った3つの門の内の最大のものがファマグスタ門です。西に有る門はパフォス門、北に有る門はキレニア門(ギネル門)、東に向いた門がファマグスタ門で、キレニア門は北のトルコ側に有りました。・・・複雑な地形に頭がこんがらがって???
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ジャコラスタワー
キプロス随一の高さを誇る建物だそうです。階下は、百貨店・スーパーマーケット等が入っています。北プロスが一望出来る展望デッキがある人気スポットだそうです。何か寂しげな繁華街でした。
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ベラバイス修道院
フランスのユーグ3世が十字軍を率いて遠征の際に建てた教会で、天井は高く、中庭の周囲の回廊はいたるところにゴシック装飾が施されている、糸杉に囲まれたお洒落な教会でした。・・・さすがセンス抜群のフランスの王様だ~な~あと感心しました。
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ギネル城
ビザンティン時代に、アラブの海賊から島を守るための砦として造られた城です。その後ヴェネツィア時代に要塞化され、十字軍の遠征途中に立ち寄ったイングランド王リチャード1世によってリュージニャン朝に譲渡されました。塔の最上階には、リュージニャンの兵士、リチャード獅子王の兵士、ビザンティン、オスマン、イギリスの兵士の蠟人形が並んでいて、この城が城塞として居城として、そして牢獄として様々な利用のされ方をされた事を物語っていました。黒衣の獄史がチェーンを持って“車を回し”そのうえチェーンで引っ張られて居る蝋人形(拷問の様子)等が展示されていました。そんな悪趣味な部屋をそそくさと後に城の屋上に登り、目の前に広がった地中海を眺め、しばらくのあいだ赤と白のふたつのトルコ国旗を眺めていました。
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2012年6月16日

サラミス遺跡
ローマ時代の遺跡は、木立や野草の緑に埋もれていました。円形劇場、体育館、浴場、市場等の跡は、南国の太陽がギラギラと照りつける下で、草ぼうぼうの自然の中に放置されていました。雑然と放置されたままになっている遺跡は、変に整備された遺跡より想像力をかきたてるものが有り素晴らしかった。
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オセロー城
通称「オセローの塔」と呼ばれる城塞です。だからと言ってシェイクスピアの悲劇「オセロー」の主人公が居たお城では有りません。キプロスがイギリスの植民地になってからだそうです。
この城塞は、14世紀初めテンプル騎士団によって建てられた城塞です。キリスト教の聖地守護のために誕生した集団で、第1回十字軍の占領には成功したものの、十字軍参加者はほとんど聖地奪還に満足して帰国してしまいました。その結果中東地域に残されたキリスト教勢力は不安定なものになりました。このことを憂慮して聖地の守護を唱え「テンプル騎士団」が誕生したそうです。テンプル騎士団の騎士の強さと勇敢さは伝説的なものだったようです。テンプル騎士団は入会者や各地の信徒から寄進をうけることで、その財力を増やし、そして多くの要塞を作ったそうです。フランス王フィリッ4世は財政面で幾度も騎士団の援助を受けながら、富裕なテンプル騎士団の財産に目を付けテンプル騎士団の壊滅と資産の没収(略奪)を計画、テンプル騎士団を瀆守と異端の嫌疑で糾弾をし、騎士団総長以下、二千人もの騎士達が捕らえられ、残酷極まりない拷問によって自白を強要し、無実の罪で火刑に処せられとそうです。そして13世紀にはエルサレム王国を支配していたテンプル騎士団も壊滅したそうです。崩れかけた城壁跡は、まさにつわもの達の夢の跡を偲ばせてくれました。
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ララ・ムスタフア・パシャ・モスク
14世紀頃に創建された教会で、創建当時の支配者は、エルサレムとキプロスの王を兼任していたリュージニャン朝の全盛時代でした。リュージャン朝の最後の支配者になったヴェネツィア生まれのカテリーナがジャック2世と結婚式を挙げたのもこの大聖堂でした。女王カテリーナは、故国ヴェネツィアの圧力によりキプロスの支配者としての王冠を脱ぎリュージニャン朝は終焉を迎えました。そしてオスマン帝国征服後は、聖堂はモスクに変えられました。当初はアヤ・ソフィア・モスクと呼ばれていましたが、その後征服戦の総司令官将軍を記念してララ・ムスタファ・パシャ・モスクと改名されました。オスマン征服後モスクに改装され、尖塔が付加され、前面にイスラム式の泉が造られました。天井が高くって、皮肉にも讃美歌が良く似合うイスラム教の寺院でした。
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洞窟教会
キリスト教が弾圧されていた時代の教会です。入口が狭く、ひっそりとした教会でした。ギン、ギラ、ギンに輝いた太陽のもとを歩いてきた私たちは、いきなり真っ暗な場所に入り目が慣れるまで方向感を失い、慌てて転んだり、ぶつかったりして慌てました。静かに神様に祈りを捧げられそうな教会でした。
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アヤナビーチ
岬全体が、国立公園になっている風光明媚なリゾート地です。もともとは小さな漁村だったのが、美しいビーチに惹かれ次第に人々が集まるようになった場所だそうです。冬でも太陽を求めロシアや北欧から海水浴客がやって来る程の人気リゾート地です。日本みたいに音楽がドン、ドン、ジャカ、ジャカが無いのが不思議な位に静かなビーチでした。
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2012年6月17日

レフカラ村
"レフカリティカ”と言われている刺繍で、15世紀にヴェネツィアから移住してきた女性達によって伝えられた技術で、白や薄茶色の麻や絹の布に丁寧に刺繍を施したレースでヨーロッパでは高い評価を受けているそうです。その昔、この村を訪れたレオナルド・ダ・ヴィンチは、このレースにいたく感動し気に入ってこのレースをミラノ大聖堂の祭壇に飾るため持ち帰ったという話、今でも実しやかに語らるています。 幾何学模様のレースはものすごく繊細で素敵でした。でも、雑然とした私の部屋のど何処に飾ろうか・・・なあ・・・?考えて買うのは辞めました。
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ヒロキティア
紀元前7000年頃の旧石器時代の住居跡だそうです。石の土台の上に藁を混ぜた土レンガで円形状の住居を造っていたそうです。狩猟採集のほかに農業と牧畜を行っていたそうです。また、出土した遺跡から当時どんな物を食べていたかがわかるそうです。すでに穀類の栽培が始まって居たようで、オリーブやイチジク、シカ、ヤギ、ブタなどの牧畜もされていたようです。見晴らしの良いなだらかな丘の頂上。日差しを遮る物がなく暑かった!
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聖母天使教会
正式名は、パナディア・アンジェロクティスィ教会だそうです。「天使が建てた聖母教会」という意味だそうです。外観はシンプルだが、内部はギリシャ正教の例に漏れずギンギラとゴージャスにイコンが飾られていました。
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聖ラザロ教会
「キリストの友人」と言われる聖ラザロは、エルサレムの東3キロ程の小さな町ベタニアに生まれたユダヤ人でした。ラザロは、マリアとマルタ姉妹の弟でした。新約聖書によると、キリストがガラリヤからエルサレムへ旅をした時にラザロの家で何度かもてなしを受けました。ラザロは、30歳で病を得て死に埋葬されましたが、四日後にキリストが復活させました。四日後墓にあったラザロは死臭を発していたが、キリストが出て来なさいと云うと、布を体に真着たまま立ち現われたと云う奇跡。復活したラザロは、キプロスのラルナカに渡り、60歳で二度目の死を迎えたそうです。使徒パウロとバルナバは、伝道の旅の途中キティウムで、羊飼いをしていたラザロ出会い、彼を聖者としキティウムの初代主教にしたそうです。ラザロの墓は、教会の祭壇の下の大理石の棺に納められたそうです。棺の中からギリシャ文字で“イエスの友人ラザロ”の棺と書かれていたそうです。そんな物語があるため、復活の奇蹟を信じてこの教会に病気治癒を願う巡礼者が多いそうです・・・。
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ハラ・スルタン・モスク
宿坊を兼ねたイスラムの僧院。背の高いナツメヤシと灌木の緑の間から青空をバックに大小のモスクの尖塔が魅力的でした。何故か猫が沢山いました。
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ラルナカ空港
観光バスに乗っての8日間の旅は終了、ラルナカ空港を2012年6月17日20時20分に発ち、ドバイ経由、成田国際空港に向け帰路に着きました。



旅の終わりに
ある日突然に、キプロス共和国を訪ねる事になりました。スワ!旅行案内書・・・しかし、お定まりの古臭い基本情報しかなくキプロスの事を知ろうにも資料が無く閉口しました。それもその筈の日本からの観光(ツアー)客は余り無いそうです。行ってみて驚いた事に、こんなに政治に翻弄された国は無いのではないかと思いました。キプロス島の歴史は9千年の歴史を持つ島で、前史時代の集落跡あり、古代ギリシャの神殿跡、古代ローマ劇場も、初期キリスト教のバシリカも、ビザンティン時代の修道院も、十字軍の城もあり、ゴシック式の教会も、ヴェネツィア時代の要塞も、オスマン帝国時代のモスクや浴場、さらにキプロスを植民地にしていた英国人の居住区がありと、世界史をギュッと濃縮・圧縮したような島で非常に興味深く感じました。出来ればもう一度、時間をかけゆっくりと訪れたいと思いました。また、2012年現在、キプロスの南北統一には目処が立っていません。トルコがEUに加盟するには、北キプロスを手放すことが条件になる事でしょう。だが、そもそもEU自体ギリシャの財政問題で揺れ前途も全く不明な状況です(キプロス共和国もギリシャ国債を大量に保持している為に財政再建国になっています)。しかし、再び訪れることが許されるならば、南北統一された平和な国家で有ってほしいと願ってやみませんでした。
2012年8月8日記
by miyon-n | 2012-09-26 16:15 | 旅行